東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。
さいとう・たかをと父 松本正彦2
Dec 09,2021
父がいなくなったあと、父の本を出版したいという想いから、たくさんの人たちに会った。
辰巳ヨシヒロさん、さいとう・たかをさんはもちろん、それ以外の多くの人に会った。
中でも興味深かったのは、父の大阪時代の作品をリアルタイムで知る人、そして日本のオルタナティブ漫画の研究者の方たちに会ったことだ。
劇画工房の8人。前列左のネクタイが父。その左後ろが辰巳さん、メガネがさいとう・たかをさん
主に貸本時代の漫画やガロを研究している彼らは、日本の一般的な漫画の読者とは異なる強い意見を持っていた。
それは、商業的な成功とは関係なく、漫画の表現そのものに評価の重点を置いている点だ。
辰巳さんも同じように考えられているようだった。
ご本人にお会いして直接話を聞いた時に、発する言葉からもそのことが伝わってきた。
貸本時代の漫画を研究している方々にとっては、白土三平やつげ義春の作品の重要性が極めて高く、さいとうさんの評価は決して高くはないという意見で一致しているようだった。
僕自身は、それを聞いて100%同意できない部分もあった。
人々に広く受け入れられることは、そこに人間の心理を突いた共感があるはず。
それは高いレベルの技術力によって、初めて成し得ることだと思う。
同じ劇画でも、辰巳さんとさいとうさんの目指した表現の質は異なるのではないか。
種類が違うだけで、僕はどちらも高い評価に値すると思っている。
さいとうさんと直接話をした時に感じたことがある。
「読む前に金を取るのが漫画だ、金を先にもらうビジネスには作者側に責任がある」
「漫画を描くことは職業・仕事としか考えていない、好きとは違う」
「自分のコマ運びはすべて計算したもの、感覚やセンスなどではなく、どれも説明することができる」
これらの発言を聞いて、自分はエンタメのプロだという強い意志があることを感じずにはいられない。
それは作家というより、職人に徹したプロ意識であり、好き嫌いを通り越して、甘さのないビジネスの世界で生きていく覚悟や信念を感じる。
辰巳さんや父が目指したもの、自己表現に対するこだわりとは全く異なるものに違いない。
どちらが良い悪いではない、種類が違うもののような気がするのだ。
それは、商業的な成功とは関係なく、漫画の表現そのものに評価の重点を置いている点だ。
辰巳さんも同じように考えられているようだった。
ご本人にお会いして直接話を聞いた時に、発する言葉からもそのことが伝わってきた。
貸本時代の漫画を研究している方々にとっては、白土三平やつげ義春の作品の重要性が極めて高く、さいとうさんの評価は決して高くはないという意見で一致しているようだった。
僕自身は、それを聞いて100%同意できない部分もあった。
人々に広く受け入れられることは、そこに人間の心理を突いた共感があるはず。
それは高いレベルの技術力によって、初めて成し得ることだと思う。
同じ劇画でも、辰巳さんとさいとうさんの目指した表現の質は異なるのではないか。
種類が違うだけで、僕はどちらも高い評価に値すると思っている。
さいとうさんと直接話をした時に感じたことがある。
「読む前に金を取るのが漫画だ、金を先にもらうビジネスには作者側に責任がある」
「漫画を描くことは職業・仕事としか考えていない、好きとは違う」
「自分のコマ運びはすべて計算したもの、感覚やセンスなどではなく、どれも説明することができる」
これらの発言を聞いて、自分はエンタメのプロだという強い意志があることを感じずにはいられない。
それは作家というより、職人に徹したプロ意識であり、好き嫌いを通り越して、甘さのないビジネスの世界で生きていく覚悟や信念を感じる。
辰巳さんや父が目指したもの、自己表現に対するこだわりとは全く異なるものに違いない。
どちらが良い悪いではない、種類が違うもののような気がするのだ。
1950年代後半、貸本漫画では3人の特集がよく組まれていた。
さいとうさんには、子供の頃に会った。
ある日当時住んでいた新宿の自宅に、父の友人らしきおじさんがやってきて、組み立て式の模型の飛行機をくれた。
それがさいとうさんとの最初の出会いだ。
僕はまだ小学校低学年だったと思う。
そのあとも、親たちはさいとうさんの別荘がある湯河原に夫婦で泊りに行ったり、親交は続いた。
さいとうさんは父のことを、いつも親しげに「おっちゃん」と呼んでいた。
父がいなくなったあとは、僕とさいとうさんとの直接の交流が始まり、毎年お歳暮やお中元、年賀状のやり取りをしていた。
いつも手描きのハガキを送ってくださって、それを見るのが楽しみだった。
それも今年のお中元で最後になってしまった。
辰巳さんとも生前、同じように自分と直接的な交流が続いていた。
ある日当時住んでいた新宿の自宅に、父の友人らしきおじさんがやってきて、組み立て式の模型の飛行機をくれた。
それがさいとうさんとの最初の出会いだ。
僕はまだ小学校低学年だったと思う。
そのあとも、親たちはさいとうさんの別荘がある湯河原に夫婦で泊りに行ったり、親交は続いた。
さいとうさんは父のことを、いつも親しげに「おっちゃん」と呼んでいた。
父がいなくなったあとは、僕とさいとうさんとの直接の交流が始まり、毎年お歳暮やお中元、年賀状のやり取りをしていた。
いつも手描きのハガキを送ってくださって、それを見るのが楽しみだった。
それも今年のお中元で最後になってしまった。
辰巳さんとも生前、同じように自分と直接的な交流が続いていた。
さいとうさんと父。京都の嵐山にて。
辰巳さんのお別れ会で。真ん中がさんとうさん、右は少女漫画の巴里夫さん
辰巳さんとさいとうさんは、劇画に対する意見の相違から、仲はあまり良くなかったように思う。
父の葬儀の時にお二人に来ていただいたが、傍から見ていてもあまり仲が良いようには見えなかった。
父は劇画工房が解散したあとも、分け隔てなくお二人と連絡を取り合っていた。
辰巳さんの描いた「劇画漂流」の資料の多くは、辰巳さんに頼まれて父が提供したものだし、さいとうプロダクションの作品「ゴルゴ13」「サバイバル」などの脚本を父は書いている。
自分の漫画「劇画バカたち」の中でも触れているが、いつも2人の間に入って仲を取り持つのが父の役回りだったようだ。
https://www.amazon.co.jp/%E9%9A%A3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%94%B7%E2%80%95%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E5%BD%A6%E3%80%8C%E9%A7%92%E7%94%BB%E3%80%8D%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4778031172/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E5%BD%A6+%E9%A7%92%E7%94%BB%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86+%E9%9A%A3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%94%B7&qid=1639014232&s=books&sr=1-1
父の葬儀の時にお二人に来ていただいたが、傍から見ていてもあまり仲が良いようには見えなかった。
父は劇画工房が解散したあとも、分け隔てなくお二人と連絡を取り合っていた。
辰巳さんの描いた「劇画漂流」の資料の多くは、辰巳さんに頼まれて父が提供したものだし、さいとうプロダクションの作品「ゴルゴ13」「サバイバル」などの脚本を父は書いている。
自分の漫画「劇画バカたち」の中でも触れているが、いつも2人の間に入って仲を取り持つのが父の役回りだったようだ。
https://www.amazon.co.jp/%E9%9A%A3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%94%B7%E2%80%95%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E5%BD%A6%E3%80%8C%E9%A7%92%E7%94%BB%E3%80%8D%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4778031172/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E5%BD%A6+%E9%A7%92%E7%94%BB%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86+%E9%9A%A3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%94%B7&qid=1639014232&s=books&sr=1-1
自分で取材編集した「松本正彦 駒画作品集 隣室の男」
父が亡くなった後に、さいとうさんに父の本を出版したいことを伝え、何か文章をいただきたいとお願いしたところ、快く引き受けてくださった。
その後、無事出版された父の作品集「松本正彦 駒画作品集 隣室の男」から、さいとうさんに書いていただいた文章の一部を紹介したい。
--------------------------------------------------------
松本正彦の名前とその作品に最初に出逢った時の感動は、今でも忘れることができない。
当時私は、家業の理髪店を姉と二人で業としていたが、何とか好きな道に進みたい、と悶々とする毎日だった。
漫画ももちろん好きではあったが、子供向けしかなかったその頃のこの世界にはあまり興味はなかったのだ。
そんな時に、貸本屋で松本正彦氏の作品に出逢ったのである。
「これだ!!」自分の求めていた世界を、氏の作品に感じたのだ。
子供を主人公にはしているが、従来の漫画的手法を廃したコマとコマの運びで見せる独特の描写、それはちょうど文の世界の行間の”間”のようなものを感じさせた。
それは手塚治虫氏が映画的手法を取り入れたそれとも違っていた。
子供物の漫画の世界に物足りなさを感じていた私には「この世界なら大人の読める作品を目指して進める」という確信を感じさせた。
(中略)
日の丸文庫の社長に、「まっちゃん(松本氏)、たっちゃん(辰巳氏)、さいとう君は日の丸文庫の三羽烏やな」と言われたことは今でも誇りに思っている。
--------------------------------------------------------
さいとうさんが漫画を描き始めるきっかけに、父の作品との邂逅があったとは感慨深い。
父は大阪時代に、さいとうさん、辰巳さんと3人でアパートの一部屋で暮らした時のことを僕に話してくれたことがある。
「楽しいことはどんなに短い経験であっても明確に覚えているが、つまらないことは何年も何をしていたかまったく覚えていない。」
父にとって、3人で生活した大阪の思い出は、かけがえのないものだったに違いない。
その後、無事出版された父の作品集「松本正彦 駒画作品集 隣室の男」から、さいとうさんに書いていただいた文章の一部を紹介したい。
--------------------------------------------------------
松本正彦の名前とその作品に最初に出逢った時の感動は、今でも忘れることができない。
当時私は、家業の理髪店を姉と二人で業としていたが、何とか好きな道に進みたい、と悶々とする毎日だった。
漫画ももちろん好きではあったが、子供向けしかなかったその頃のこの世界にはあまり興味はなかったのだ。
そんな時に、貸本屋で松本正彦氏の作品に出逢ったのである。
「これだ!!」自分の求めていた世界を、氏の作品に感じたのだ。
子供を主人公にはしているが、従来の漫画的手法を廃したコマとコマの運びで見せる独特の描写、それはちょうど文の世界の行間の”間”のようなものを感じさせた。
それは手塚治虫氏が映画的手法を取り入れたそれとも違っていた。
子供物の漫画の世界に物足りなさを感じていた私には「この世界なら大人の読める作品を目指して進める」という確信を感じさせた。
(中略)
日の丸文庫の社長に、「まっちゃん(松本氏)、たっちゃん(辰巳氏)、さいとう君は日の丸文庫の三羽烏やな」と言われたことは今でも誇りに思っている。
--------------------------------------------------------
さいとうさんが漫画を描き始めるきっかけに、父の作品との邂逅があったとは感慨深い。
父は大阪時代に、さいとうさん、辰巳さんと3人でアパートの一部屋で暮らした時のことを僕に話してくれたことがある。
「楽しいことはどんなに短い経験であっても明確に覚えているが、つまらないことは何年も何をしていたかまったく覚えていない。」
父にとって、3人で生活した大阪の思い出は、かけがえのないものだったに違いない。
父の作品「劇画バカたち!!」フランス語版
「劇画バカたち!!」の中で描かれるさいとう・たかをさん
さいとうさんは、父の七回忌の際に、お墓にも来てくれた。
1人だけで見えて、その時はたくさんお話ができて楽しい時間だった。
さいとうプロにお邪魔して少し仕事に関する話を伺った時は、父とはまったく違う資質を持った人だということは感じていた。
辰巳さんにも似たような部分があると感じたが、さいとうさんはそれよりさらにドライな人、クールな視点を持った人だと思う。
さいとうさんは漫画を単なる職業と言っていたが、父にとって漫画とは何だったのだろうか?
描きたいものを描いて買ってもらうという感覚が理解できないというさいとうさんに対して、父は当初漫画が好きで描いていたと思う。
好きなことを職業とし、その表現を突き詰めた結果として生み出した「駒画」が、辰巳さんの「劇画」につながり、それが最終的には、さいとうさんが描く「劇画」として日本中に広まった。
その原点は、間違いなく大阪での3人の共同生活が発火点になっていると思う。
劇画の原型であり、劇画より1年半早く生まれた駒画の表現は、共同生活の直後であることが、それを物語っている。
当り前だが3人の資質は違う。
それまでの漫画にはない革新的な表現「駒画」を生み出した早熟な表現者、松本正彦、
その表現に影響を受け、自分の作品に取り入れ、大阪から上京する際の旗印として「劇画」の名称を考案した戦略家、辰巳ヨシヒロ、
劇画工房解散後もなお複数で制作するシステムにこだわり、プロダクション制を導入し、作品の大量生産を実現させ「劇画」を全国へ広めたプロデューサー、さいとう・たかを。
当時三羽烏として人気作家だった3人がバトンを渡していく度に、読者を増やし、マーケットを拡大させていったのは事実だ。
3人の異なる資質の組合せが、漫画の新たな表現を切り拓いていったことに間違いはない。
その原点には「駒画」があった。
1人だけで見えて、その時はたくさんお話ができて楽しい時間だった。
さいとうプロにお邪魔して少し仕事に関する話を伺った時は、父とはまったく違う資質を持った人だということは感じていた。
辰巳さんにも似たような部分があると感じたが、さいとうさんはそれよりさらにドライな人、クールな視点を持った人だと思う。
さいとうさんは漫画を単なる職業と言っていたが、父にとって漫画とは何だったのだろうか?
描きたいものを描いて買ってもらうという感覚が理解できないというさいとうさんに対して、父は当初漫画が好きで描いていたと思う。
好きなことを職業とし、その表現を突き詰めた結果として生み出した「駒画」が、辰巳さんの「劇画」につながり、それが最終的には、さいとうさんが描く「劇画」として日本中に広まった。
その原点は、間違いなく大阪での3人の共同生活が発火点になっていると思う。
劇画の原型であり、劇画より1年半早く生まれた駒画の表現は、共同生活の直後であることが、それを物語っている。
当り前だが3人の資質は違う。
それまでの漫画にはない革新的な表現「駒画」を生み出した早熟な表現者、松本正彦、
その表現に影響を受け、自分の作品に取り入れ、大阪から上京する際の旗印として「劇画」の名称を考案した戦略家、辰巳ヨシヒロ、
劇画工房解散後もなお複数で制作するシステムにこだわり、プロダクション制を導入し、作品の大量生産を実現させ「劇画」を全国へ広めたプロデューサー、さいとう・たかを。
当時三羽烏として人気作家だった3人がバトンを渡していく度に、読者を増やし、マーケットを拡大させていったのは事実だ。
3人の異なる資質の組合せが、漫画の新たな表現を切り拓いていったことに間違いはない。
その原点には「駒画」があった。
「劇画バカたち!!」に出て来る大阪での3人の共同生活のシーン
さいとうさんの戒名には、「劇画」の呼称が入っている。
劇画とともに生きた人生だった。
さいとうさん、長い間ありがとうございました。
さいとう・たかをと父 松本正彦 その1
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2021/12/-1-2.html1
劇画とともに生きた人生だった。
さいとうさん、長い間ありがとうございました。
さいとう・たかをと父 松本正彦 その1
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2021/12/-1-2.html1