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私の履歴書 人生で志すことを決めた時 2

私の履歴書
Sep 04,2024

(前回の続き)

https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2024/08/-1-4.html

自分は今なぜここにいるのか、なぜこの仕事をしているのか、

大谷が何かしらのきっかけで野球選手を目指したように、人それぞれ、自分の道を決めたきっかけが、必ずそこにはあるはずだということを前回は話した。

東京都から表彰を受けた地震のポスターを描いている小学4年の私。
ここからは自分の話になる。
父が漫画家というクリエイティブな環境が身近にあったために、自分は幼少の頃から日常的に絵を描いていた。
教えられた記憶はあまりないが、幼いころからたくさん絵を描いていたらしい。
美術との出会いは、間違いなく父からの影響があったと思う。
幼稚園の時から既に頭角を現し、絵のコンクールで金賞を獲り、表彰されていた。
幼稚園で平凡社の絵のコンクールで入賞して表彰された。前列左がワタシ。
小学校に入ると、1年生の時に毎日新聞のコンクールで入賞し、初めて新聞に自分の絵が掲載された。
「教師を28年やっているが、こんなに絵の上手い子は今まで見たことがない」
当時の担任の先生から、そのように親は言われたらしい。
同時に同じ先生から、「この子はサラリーマンには向かない」とも指摘された。
6歳の時の自分を見て、先生はその特徴を見抜いていたのかもしれない。
人と競争する気持ちがほとんどない、そのためマイペースで作業が遅いということだった。
小学生の高学年になっても、毎年何かしら絵のコンクールで入賞し、生徒が校庭に集まる朝礼で名前を呼ばれ、朝礼台に立って全校生徒の前で表彰状をもらった。
少しずつ、そういうことが慣れっこになっていった。
その時の図工の先生とも仲良くなり、その後自分が35歳の時に先生が亡くなるまで、個展に通って長く交流を続けた。
小学校でペン字が新宿区で銀賞、字はうまくないけど、文字を画像として捉えていた。
しかし中学に入学すると変化が起きる。
成長期に入り、父親の仕事に誇りを持てなくなりつつあった自分は、中1の2学期で美術部を辞め、芸術から距離を置くようになった。
ピークを過ぎて、もはや人気漫画家ではなくなっていた父と、ずっと働く母、自分の家が他の家庭と違う環境であることを知り、美術は誰かに大変な思いを強いるもの、そして何千分の1の人しか豊かにはなれない、継続性が極めて難しい職業であると感じたことが大きかった。
「好き」だけではやっていけないことを知ったのだった。
普通の家庭ではない自分の家の環境を疎ましく思うようになった。
中1の時、ポスターコンクールで入賞し、都庁に赴いて、当時東京都知事だった美濃部さんから、手渡しで表彰されたのを最後に、以後美術に触れることを一切やめてしまうのだった。
生徒会長に立候補した友人に頼まれて、彼の宣伝ポスターを描いたことを除き、そこから3年間、美術に触れることはなかった。
中学1年生の時、ノートにマンガを描いていたのは、父の影響かもしれない。
中3の高校受験の時、美術専門の高校があることを知ったが、その学校を受験することはなかった。
第1希望の都立と滑り止めの私立、2校だけを受験した。
ところが2つとも落ちてしまい、あわや中学浪人か、という状況に追い込まれた。
2つ目に受験した都立高校に落ちたことがわかった時、一般の高校入試は、ほとんど終わっていて、残されていたのは3次募集を募っている学校だけだった。
都内全域でそんな高校は3校くらいしかなく、3次募集の2回目という最後の最後のタイミングに駆け込みで願書を出し、その高校に行くことになった。
3次募集まで実施するのは、当然滑り止め専門と言われた高校だ。
大量の中学生が受験するが、その半分くらい?が志望高校に受かるために、定員割れとなって3次募集まで実施する。
試験当日は、教室の半分にも満たない15人くらいの受験者しかいなかったが、合格発表でそのうちの5人くらいは落ちているのを見て、入学できただけよかったと思った。
3次募集をしている3校すべて受験が可能だったが、その時は受ける気力もなく、3次募集の2回目(実質4次募集)を行っていた1つの高校しか受けなかったので、もし落ちれば浪人か定時制が確定だったと思う。
中学生の頃は戦争映画が好きだった。誰に見せるわけでもなく戦争マンガを描いていた。
なんとかギリギリで無事に高校へ入学したが、クリエイティブなどやる気のない自分は美術部にも入らず帰宅部になるとハナから決めていた。
その時は日大に行こうと考えていた。
高校に入学したばかりの自分は、日大の偏差値が良いのか悪いのか、どんな大学かも全く知らなかったが、日本で一番普通の学校という意味で、唯一知っている日大に行きたいと思っていた。
特殊な家庭環境が嫌で、どうしても普通の人になりたいと考えていた。
自分が生まれた時から昼間は外に出て働き、帰ってきても夜中まで家で仕事をしていた母の姿を見て育ったからだった。
だから普通を代表する個性のない大学に行って、普通の人になろうと決心していた。
普通の人生を歩めば、母のように他人に苦労をかけないと思っていたからだ。
当時よくテレビで、会社帰りに赤ちょうちんに行って家に酔って帰って来る父親の姿が描かれていたが、もちろんそんな父親の姿は1度も見たことがない。
クリスマスにケーキを買って帰って来る父親、そんな普通の父親像にもあこがれていた。

高1の選択授業は、習字、音楽、美術の3つがあり、その中から一応は美術を選んだ。
その週1回の選択授業で出会ったのが美術の先生だった。
入学して授業が始まった高1の初め、自分の描いた絵を見た先生は、授業中に美術部に入らないかと誘ってきた。
自分には全くその気はなかった。
美術には興味がないと、正直に答えた。
しかし見に来るだけでもよいからと、根気強く何度も誘ってくれた。
授業の最中に、だ。(当り前だが授業中しか会わない)
先生の熱心な説得に折れ、じゃ見に行くだけなら1回だけという返事をした。
その返事をした時、既に季節は秋になっていた。
1度だけでなく、春から秋まで根気強く誘ってくれた先生には感謝しかない。

秋のある日の放課後、美術室の隣にある美術部の部室に初めて見学に行った。
そこで衝撃を受けることになる。
1人の部員が絵を描いていたのだが、それまで見たこともない大人の、本当に見たこともない次元の絵を描いていた。
後になってわかるのだが、彼は同じ年の同級生で、描いていたのはヘルメスという石膏像だった。
これも当時の自分はまったく知らなかったが、描いていたのは木炭によるデッサンだった。
それが本当に衝撃だった。
こんなジャンルがあるのか?と思った。
立体的な表現があって、この世のモノなのか?と思うくらい大人の絵だった。
自分は高校まで、美術はすべて5段階の5を取り、クラスはもちろん、学年で自分より絵が上手い奴をそれまで1人も見たことがなかった。
いや自慢したいわけではなく、これは本当のことなのだ。
同じ年で、こんな奴がいるなんて、、、正直本当に衝撃だった。
忘れられない。
この経験が、その後も自分を美術室に見学に向かわせることになる。
美術は奥が深いと思った。
まだまだ知らないこと、学ぶべきことがあるのだ。
自分がずっと1番だった分野に、もっと上がいることを初めて思い知らされた瞬間だった。
それは先に入部していた彼が、入学してから半年間、訓練していたからなのだが、それすら自分にはわからなかった。
何度か見学に行ったあと、先生から入部を勧められた。
もしあの時、同級生の絵を見ていなかったら入部もしなかったかもしれない。
それも偶然だった。
これがきっかけとなり、美術に再び戻ることを決心したのだった。
先生が根気強く誘ってくれなかったら今の自分はない。
6歳の時の担任の先生のように、美術の先生も自分の特質を見抜いていたのかもしれない。
美術予備校では、デッサンが250人中3位に入り、パンフにも掲載された。
美術部に入ると、美術予備校、今でいう画塾という美大に入るための学校があることを知る。
先輩たちはみんなそこへ通っていた。
特に何の疑問も持たず、自動的に先輩たちの後を追って、その絵の上手い同級生と自分も、美術予備校へ通うことになった。
高2の始めから、僕たち2人はJR目白駅にある美術予備校の夜間部に入り、学校が終わってから週3回通い始める。
そこで美術大学への進学について、当然のように考えるようになっていく。
先輩たちもそうであったように。
皮肉にも、受験したすべての高校に落ちたからこそ、ここにつながったのだった。
現役で美術大学に入学し、今につながっている。

自分の人生に間違いなく影響を与えた転機は、16歳の秋にあった。
それは、自分が見つけ出したのではなく、先生によってもたらされたものだった。
先生がいなかったら、自分の人生は間違いなく違ったものになっていただろう。
普通の人になりたいという想いで、日大に行っていたかもしれない。
熱心に誘ってくれた先生には、心から感謝している。
僕の扉、家庭のコンプレックスで閉じられた重い扉を開けてくれたのは、他でもない美術の先生だった。
夕日の差し込んでいた美術部の部室で見た絵が、自分を動かした。
その経験が、美術を通した豊かな人生への道を切り開いてくれたのだ。
その時は何も思わなかったが、自分の未来を決める大きな分かれ道だった。
父への、そして美術へのコンプレックスは、決してそれだけで解消したわけではないが、少なくともあの時に美術への回帰のチャンスを逃していたら、自分の人生は本当につまらないものになっていたと思う。
複雑な自分の気持ちを1度真っすぐにしてくれたのは先生だった。
多くの人生経験をしている先輩だからこそ、それができたのだと思っている。
自分の力だけでは、絶対にできなかった。
他人や外部からの働きかけは、思わぬことにつながる。
いま大学で学生たちにデザインを教えている。
今自分は大学で学生たちにデザインを教えている。
自分もそうしたチャンスを与えられるだろうか。
ただの就職準備として捉えず、美術の素晴らしさを理解してもらえたら。
講義で、そんな経験を少しでも彼らに与えることができたらなと思いながら話している。

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松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
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